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年譜

◆小杉放菴の略年譜

西暦(元号)
[干支]
年齢 事由

1881(明治14)年
[辛巳]
0歳 12月29日、二荒山神社の神官であった小杉富三郎と妻・タエとの間の末子として、日光の山内で生まれる。
 
1893(明治26)年
[癸巳]
12歳 6月、実父・富三郎が日光町の2代目町長となる。
五百城文哉がシカゴ万博出品画制作のため日光に逗留、そのまま永住する。
 
1896(明治29)年
[丙申]
15歳 中学校を退学し、五百城文哉の内弟子になる。
 
1897(明治30)年
[丁酉]
16歳 五百城文哉に無断で上京し、白馬会の研究所に通うが、まもなく病を得て帰郷。再び文哉のもとに帰る。
この頃から未醒と号する。
 
1899(明治32)年
[己亥]
18歳 師の許しを得て再上京し、小山正太郎が主宰する画塾・不同舎に入る。同期には青木繁や荻原守衛らがいた。
 
1902(明治35)年
[壬寅]
21歳 太平洋画会の会員となる。
 
1903(明治36)年
[癸卯]
22歳 小山正太郎の推薦で近事画報社に入る。
田岡嶺雲らの紹介で小川芋銭を識り、親交を結ぶ。
 
1904(明治37)年
[甲辰]
23歳 日露戦争に記者として従軍し、画報に通信する。
 
1905(明治38)年
[乙巳]
24歳 9月、鹿子木孟郎、石井柏亭、平福百穂らとともに美術文学雑誌『平旦』を創刊する。
『近事画報』『新古文林』などにおいて、漫画家としても頭角を現わす。
 
1906(明治39)年
[丙午]
25歳 五百城文哉が逝去(43歳)。
国木田独歩の仲人で、日光町七里の相良楳吉の長女・ハルと結婚する。
 
1907(明治40)年
[丁未]
26歳 5月、美術雑誌『方寸』が創刊され、参加する。
6月4日、長男の一雄が誕生する。国木田独歩が名付け親となった。
 
1909(明治42)年
[己酉]
28歳 押川春浪ら武侠社の人々と交遊する。
 
1910(明治43)年
[庚戌]
29歳 第4回文展に油彩画《杣》を出品、三等賞を受ける。
 
1911(明治44)年
[辛亥]
30歳 第5回文展に油彩画《水郷》を出品し、最高賞であった二等賞を受賞する。
 
1913(大正2)年
[癸丑]
32歳 フランス、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツ、ロシアなどを旅行する。
 
1914(大正3)年
[甲寅]
33歳 9月2日、再興された日本美術院に同人として参加し、洋画部を主宰する。
10月、文展より独立した二科会に審査員として参加する。
 
1920(大正9)年
[庚申]
39歳 9月、第7回院展の開催中、足立源一郎、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎ら、洋画部同人全員で脱退する。
 
1922(大正11)年
[壬戌]
41歳 1月、春陽会の創立に参加する。
 
1923(大正12)年
[癸亥]
42歳 倉田放居士(白羊)から“放”の字をもらい、放庵と号す。
 
1924(大正13)年
[甲子]
43歳 2月、山本鼎らの農民美術研究所を母体として九科会が結成され、参加する。
5月まで中国に旅行する。
 
1925(大正14)年
[乙丑]
44歳 東京大学安田講堂の壁画を描く。
 
1927(昭和2)年
[丁卯]
46歳 9月、放庵の提唱により、「老壮会」が発足し、荘子や詩経などが講じられる。
10月、芭蕉の足跡をしたい、岸浪百艸居と東北・北陸を旅行する。
 
1928(昭和3)年
[戊辰]
47歳 12月、小堀鞆音、荒井寛方らと栃木県出身の日本画家有志による華厳社を組織する。
 
1930(昭和5)年
[庚午]
49歳 妙高高原の赤倉温泉に別荘を建て、安明荘と号す。
 
1935(昭和10)年
[乙亥]
54歳 この頃より、放庵を放菴と署するようになる。
5月、帝国美術院の改組(松田改組)が行なわれ、帝国美術院会員となる。
 
1937(昭和12)年
[丁丑]
56歳 6月、帝展安井改組により、帝国芸術院会員となる。
 
1939(昭和14)年
[己卯]
58歳 4月、ニューヨーク万国博覧会に油彩画《僧》を出品する。
 
1944(昭和19)年
[甲申]
63歳 10月、第1回軍事援護美術展に《山翁奉仕》を出品。のちに日光小学校に寄贈される。
 
1952(昭和27)年
[壬辰]
71歳 12月、国立近代美術館記念日本近代美術展において《太宰帥大伴旅人卿讃酒像》が展示される。
 
1958(昭和33)年
[戊戌]
77歳 日光市名誉市民に推戴される。
 
1959(昭和34)年
[己亥]
78歳 日本芸術院会員を辞退する。
 
1960(昭和35)年
[庚子]
79歳 4月、朝日新聞社の主催による画業60年展が日本橋高島屋で開催される。
 
1964(昭和39)年
[甲辰]
   4月16日、82歳で逝去。法名は「放菴居士」。墓所は日光市所野の鳴沢左岸。
 

この年譜の作成にあたっては、竹山博彦氏の編纂による「小杉放菴略年譜」(『小杉放菴画集』日本経済新聞社)などを参照しました。