小杉放菴と師匠

1896(明治29)年、15歳のときから本格的に、
小杉放菴は、絵の勉強をはじめます。
絵の師匠(ししょう)は、当時、日光に住んでいた
五百城文哉(いおきぶんさい)という洋画家です。
師匠の家に住み込んで、絵の描き方を学びました。

五百城文哉

五百城文哉

東京にあこがれていた放菴は、翌年、
師匠に無断で上京してしまいます。
そして、東京で絵の勉強をはじめましたが、
まもなく病気になって、
日光に戻ってきました。
そんな放菴を、師匠はもう一度、
温かく迎え入れてくれました。

絵を教える五百城文哉

絵を教える五百城文哉

それからも、まるで我が子のようにかわいがり、
絵を教えてくれたそうです。

放菴の最初の雅号「未醒」は、
実は、この師匠と深い関係があります。

《小杉未醒の漫画》より

若いころからお酒が大好きだった放菴が、
お酒はまったく飲まない師匠に、
お酒の飲み過ぎを叱られたときに反抗して
「未(いま)だ酒から醒(さ)めることができません」
という意味の雅号をつけたということです。

とはいっても、放菴は、
師匠のことをとても
尊敬していました。

放菴の描いた文哉像

放菴の描いた文哉像

そして、1899(明治32)年、18歳になると、
今度は師匠の許しを得て上京し、
東京での活躍がはじまるのです。

《東照宮・陽明門》

《東照宮・陽明門》

これは、放菴が19歳のころに描いた水彩画です。
小杉放菴記念日光美術館にある放菴の絵のなかで、
いちばん早い時期のものです。