漫画家として
上京してからの小杉放菴は、
漫画や教科書の挿絵を描いたり、
日光や横浜で外国人に売るための
水彩画を描いたりしながら、
絵の勉強をしていました。
そして、1904(明治37)年、23歳のときに、
日本とロシアの間で戦争(日露戦争)が起きると、
その状況を絵や記事で伝える記者として、
戦地へも行きました。
このような経験を生かして、
さまざまな雑誌に漫画や挿絵も描きました。
『漫画一年』『漫画天地』『漫画と紀行』
などという本も出版しています。
明治時代の放菴は、
漫画家としても大活躍でした。
こんな絵を見ると、
漫画を描くことで身につけた技術が、
放菴の日本画の基礎になっている
と言ってもよいでしょう。