晩年の小杉放菴
1945(昭和20)年5月、太平洋戦争における空襲で、
小杉放菴の田端の家は焼けてしまいました。
同じ年の3月から、新潟県妙高高原新赤倉の
「安明荘(あんめいそう)」と名付けた別荘に
疎開(そかい)していた放菴は、
以後、そこで暮らすようになります。
放菴が64歳のときのことです。
それからは、展覧会や用事があるたびに、
新赤倉から上京する生活となりました。
安明荘には、作物をつくるための畑や、
四季折々に美しい自然を楽しむことのできる
庭がありました。
安明荘での放菴の生活を、ある人は、
「放菴は、仙人になってしまった」
と言ったそうです。
放菴の画室(絵を描くときの部屋)のようすです。
一日のうち、主に午前中が、
画室で絵を描く時間でした。
絵を描いている間は、
家族でさえ、画室のなかに
入れなかったそうです。
小杉放菴記念日光美術館には、
晩年の放菴が日々描きとどめた、
たくさんのスケッチが遺されています。
花や鳥、山々の風景などをはじめ、
身近なものを、的確な線で描いています。
放菴の絵の基礎を、スケッチに見ることができます。
安明荘の庭には、放菴が、
「高石(たかいし)」や「むじな岩」と
名付けた、大きな岩がありました。
「高石」は高さが2メートルほど、
「むじな岩」は大きさが畳8帖分くらいも
あったそうです。
放菴は、時間ができると、
これらの石の上に坐り、
妙高山などを眺めることを楽しみにしていました。
放菴の日本画には、石の上に坐る人物が、
たびたび登場します。
絵の中では、きこりであったり、漁師であったり、
歴史上の人物であったりするその姿は、
実は、放菴自身なのかもしれません。